高庭駅家跡と濃唹駅跡 (たかにわのうまやあと / のおえきあと)

大野町高幡の薬師寺堂付近が、高庭駅家(たかにわのうまや)と濃唹駅(のおえき)の跡と推測されています。駅馬(はゆま:公の使いをするものが乗り継ぐための馬)が5~20馬置かれていました。

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高庭駅家跡と濃唹駅跡 (たかにわのうまやあと/のおえきあと)

高庭駅家跡と濃唹駅跡 写真

大野町高幡の薬師寺堂付近が、高庭駅家(たかにわのうまや)と
濃唹駅(のおえき)の跡と推測されています。

肥後国益城郡(ひごのくにましきごおり)の人、大伴熊凝が
役人のお供をして都にのぼる途中、天平3年(731年)6月17日に
安芸国佐伯郡高庭駅で病気にかかり、

18歳の若さで遠く家郷の父母を慕い嘆き悲しみながら息を引き取り
それを伝え聞いて、当人に代わり当時筑前国司守の
山上憶良(やまのうえおくら)がその心持を述べて作った歌が
万葉集 第5巻に載っています。

高庭駅家跡と濃唹駅跡 写真

駅家とは、今の鉄道の駅に当たるものですが、古代のこの制度は
各駅家ごとに駅馬(はゆま:公の使いをするものが乗り継いでいくために
用意された急用の馬のこと)を5~20馬をおく定めでした。

現在、薬師堂境内に山上憶良の歌の1つ、
「出でて行きし日を数へつつ 今日今日と 吾を待たすらむ 父母らはも」
を刻んだ歌碑が、駅家のあった場所に建っています。

高庭駅家跡と濃唹駅跡 写真

のち、山陽道のうち安芸国には駅家の移動がみられ、
延長5年(927年)完成の延喜式には 濃唹駅(のおえき)の名が
載っていますが、これは高庭駅家が廃止された後に、
同所に濃唹駅が建てられた為と考えられています。

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